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2007年01月05日
■べきこと

あるとしてある。
さればなきとはいかなることであることか。
この矛盾を問うが、人たるべきや。

時にしてあらざることも、時にしてあるべくこととなす。

語るは易く、悟るに難し。

投稿者 邑波。 : 04:26 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月01日
■自分

自分を意味づけするのは他者なわけだが、自分を作るのはまるっきり他者というわけではない。
他者無くして自己を形成するのはおおよそ不可能に近いことだと思われるが、自己の姿に自身が干渉することは、幸いにして可能であると思われる。
この幸運な権利を行使しない手は無いではないか。
そうは思わないか?

投稿者 邑波。 : 06:13 | コメント (0) | トラックバック

2006年01月31日
■静

いろいろなことが頭の中で交錯し、いろいろな感情が様々に交錯する。
そのすべてのどこまでが本当でどこまでが嘘なのか。
あるいはすべてが本当なのか、それともその逆なのか。
事実と本当は違って、真実と本当は違う。
そのすべてはオレにとっての真実となりうるだろうが、事実には到底なり得ない。
そこで吐露すべき妄想も心情も定かとはならない。
その凡てを語るべき相手は一人だろうと結論づけた。
黙して冷静となろう。
語るべきことは語るべき相手に語ろう。

投稿者 邑波。 : 20:52 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月08日
■気分変調

ここのところ気分変調が激しい。
薬を飲んでも眠れずに、結局寝るのをあきらめて今この時間に起きている。
相方のたまの休みでも、彼女はどっかへ出かけたりして、帰ってくるのは12時をすぎていたりで、ろくに話もしない。
向こうから話しかけてくることもあまりない。
そういった状況が自分の精神に対していろいろと語りかける。
そういうことは怒るべき事柄でもないし、注意する事柄でもない。
相手にとって自分の存在が希薄なだけだろう。
つまり原因は自分にある。
だからといって、相手にこっちを向かせるようなアクションを起こす気力もない。
終わりなら終わりですべてを精算するだけだ。
こうした不調和は明らかに今の仕事を始めてからなのはわかっている。
今の仕事に対する姿勢に関してはオレからみれば相当に無神経なところがあり、それが引き金となっている。
今まで何度そういった無神経というか考えのない行動に憤りを感じたことか。
だから前いったとおり、疲れた。
もう、いっても無駄なのかと。
自己を防衛するために相手の価値を落とすのだ。
そうした自己の精神制御はある程度はうまくいく。
だが、完全に制御できるわけでは当然ない。
そのあたりが昨今の気分変調の大きさの要因となっていることは容易に推測できる。
うまく制御できているときとそうでない時があるわけだ。

単純な質問なんですが。
別の女探した方がいいんでしょうか。

投稿者 邑波。 : 06:29 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月18日
■痛み

大切な人の気持ちをおもんばかること。
できないのでしょうか。
それとも大切な人ではないのでしょうか。
いろいろなことを指摘して、そのたびにうんうんうなずいてきたけど、結局何一つとして理解してもらえなかったということでしょうか。
もう疲れました。
今は、自分の心を守るためには、自分の感情を消すという手段しかとれません。
そこまで器用じゃないんです。
アナタをただの他人だと思えば、アナタが何をしようと、ワタシがココロを痛めることはありません。
眠れるように、考えないですむように、いつもよりたくさんの睡眠薬と精神安定剤を。

投稿者 邑波。 : 20:41 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月21日
■2ちゃんねるで拾った言葉

夢を捨てねば生きていけぬと汝は言う。
それで生きているのかと我は問う。

投稿者 邑波。 : 00:40 | コメント (0) | トラックバック

2005年06月19日
■散り散りになった友たち

今はなき『FFのお部屋』。
いろいろな問題を抱え、全面的にその存在を肯定できない状態が訪れたりもしたが、そのサイトを中心にして、数多くの人々と出会った。
そして、waterblue.net。
今は若干風貌が変わっているけれど、その発足当時は、FFのお部屋で出会った人間同士があつまり、ボス主導のもとに人々が集った(例外はあるけれど)。
幅広い人間関係が構築され、よくみんなで集まったりした。
一緒に遊んだり歌ったり飲んだり、有り体なんだけれど、心地のよい人間関係がそこにはあった。
だけれど、時間とともに、そのころは学生だった人たちも社会人になり、それぞれの道を歩み始め、そして関係が疎になっていくのも感じた。
waterblue.netの管理にも、限界がきていた。
今一度、昔のような頻度であうことはできなくても、昔懐かしい顔ぶれで集まれるような環境を作りたい。
そう思い立って、waterblue.netを自己運営することを計画し始めた。
いろいろと問題があり、運営が軌道に乗るのには時間がかかったが、今はうまく機能しているように思える。
後は人だ。
散り散りになった友たちを集めたい。
昔のように、気軽にはなせるように。
そう思って、みなのウェブサイトを回ってみたのだけれど、ほとんどが消えてしまっていて。
自分のできる範囲から少しずつ広めていくしかない。

投稿者 邑波。 : 01:12 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月23日
■ちょっとショック

ちょこちょこ覗いていたサイトが無くなっておりました。
秘密結社 CG202 というサイトなんですが、今日みてみたら妙な画面が。
管理人さんの状態が思わしくないことは伺えたので、移転とかではなく閉鎖なんだろうと思います。
ちょっと残念な気分です。
あちらにいた人たちとはオレは少々スタンスが違う(と思う)わけですが、あちらはあちらで生きるための姿勢というものは好感が持てていたのですが。
まあ、オレはオレであって、あそこに集まっている方々とはまた違う形を持っているわけですが。
当たり前ですね。
でも、生に対する姿勢って、結構似通った人間が集まったりするもんじゃないか、なんて思ってみたりもする今日この頃です。

投稿者 邑波。 : 00:32 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月22日
■ある東大生の波紋

ついぞ忘れかけていたある東大生の件。
ある東大生が男か女かは知りませんが、仮に男として彼と呼称することとします。
今日、彼の記事(もうリンクはいいですよね)に対して思うところを書いた記事に対して、トラックバックをいただきました。
それで彼のことを思い出したわけです。
で、この時期になってもまだトラックバックが来るということは、彼の書いた例の記事が未だに波紋を投げかけているのでしょうか。
ということで覗いてみました。
最後のコメントが 2005年04月22日 17:23。
まだ鎮火していないようです。
でまあ、状況としては、あの場で彼とまともに議論する気はもはやみな無いようで。
賢明なことです。

ところで、あの記事が書かれたは 2005年04月01日。
三週間が経過しても鎮火しないのには少々驚きを覚えます。
それだけ鬱(医学用語じゃないらしいですね。通りでいつも診断書に「うつ」って平仮名で書かれるわけだ。漢字がめんどくさいだけかと思っておりました)をターゲットにしたのがまずかったってことなんですかね。
テーマによっては、当然のことですが、ここまで引きずりはしないでしょう。
ある種、知識のないものが軽率にswnjねって感じでしょうか。
というよりも、あれか。
彼の鬱に対する考えが鬱の人を侮蔑するようなものであり、なおかつ根拠が自身の経験にだけ根ざしたすばらしいものであり、さらにはその考えが誤ったものだからココまで燃えてるわけか。

でさー、ココまで来て実はエイプリルフールだっていうオチだけはやめてね★

投稿者 邑波。 : 19:30 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月12日
■生と死

死んだらどうなるか
これって結構ポピュラーなテーマですよね。

でまあ、どうやら人間は何もかもが無くなるのをおそれているようで、多くの思想や宗教(主には宗教)で死後の世界(結果的に生前の世界)というものが語られてきました。
因縁、輪廻転生、イデア界、天国、地獄などなど。
ガウタマシッダールタとかイエスキリストなんかに代表されるお偉い宗教家さんは、悟りを開いちゃったり神のお子様だったりして、死んだ後どうなるかをご存知だったようですが、我々凡人にはそんなことはわかるはずもなく、彼らの弟子によってゆがめられた彼らの思想を伝え聞くしか、死後の世界というものに関しての知識を得ることは出来ないのが現状です。
でまあ、仏典にしても聖書にしても、彼らが直接書いたわけではなく、彼らの弟子がその主観を通じて、時には脚色も入っているのかもしれませんが、かかれているわけで、その内容が彼らの思想を厳密に反映しているものではないと考えられ、従って、我々はそういったお偉い宗教家さんの知識を精密に厳格に得ることは出来ないと考えられます。
でもおおよそはあってるんでしょうね。

で、我々凡人にとって問題になるのは、彼らの主張に対する正確な知識を得ることではなく、死んだらどうなるのか、というリアルの方です。
そして、人間はおおよそ帰納的方法で知識を蓄積していくので、実際に死んでみるということが経験出来ない(はずな)ため、我々凡人にとってのリアルというものが得られることは無いと。
そうすると、死というものは、人間にとってブラックボックスであるわけです。
ひとまずわかっているのは、死ぬと動かなくなることくらいなわけで。
で、そうなると、少なくともこの世界での活動には、終止符が打たれる。
この世界しか知らない我々凡人は、この世界がすべてなので、この世界の終止符はすべての終止符と考えるのが直感的なので、しばしばこの世界に対して辟易としても、死に対してなかなか踏み切れない。
とりあえず死んでみるっていうお試しが出来ないわけです。
困ったものです。
そして、そういうとき、人間は死を選ぶ代わりの選択をしたりします。
たとえば宗教に浸かってみたり。
スロット打ってみたり。
手段は様々ですが、苦悩から逃れるために、何かしらの手を打つのはままあることです。
それが、真っ正面から対峙することで解決される見通しのないものであればなおさらのことです。

んで。
そんなときに脳裏をよぎるのは。
生きる意味ってなんだろう。
むしろ、生きる意味なんて無いんじゃないか。
そんな思想です。
生きる意味については以前書いたような気もしますが、一応書いてみます。
まず、根本的に、生きる意味なんてものは存在しないと。
これは、すべての生きとし生けるものに共通するそれは存在しないという意味です。
すると、意味がないことをなぜ延々続けているのか、ということになります。
これって人間の悪い癖だと思います。
意味のないことをやっちゃいけないものですかね?
それとか、何かしらの原因のわからない出来事に対して、なぜと問うたりすること。
たとえば、やましいことの一つもない人生を送ってきて、順風満帆に人生を送っていて、そんなさなか遂に結婚、そして出産。
だけど、その子が産後一月も経たないうちに死んでしまった。
そんなとき、なぜうちの子が、といいたくなってしまう。
そんなとき、宗教がしゃしゃり出てきて、それはアナタの前世の行いが云々だとか。
そうやって無理矢理に理由付けをしたがる傾向があり、そしてそれは良くない性向だと思っています。
それと同じく、生という意味のないことに対して、何かしらの意味づけを欲し、そこから宗教に浸かったりするのはよくあることです。
ですがね。
意味がなかったり理由がなかったりすることに対して、自分なりの意味づけや理由付けををすることって、悪いことじゃないと思います。
いやあんたさっきといってること違うじゃんって思ったアナタ。
えぇ、そう見えますね。
ですがちょっと違うのです。
意味がない、あるいは、理由など無いということを認識した上で、自分なりの意味づけ・理由付けをすることは、意義のあることだと思うのです。
なんでかっていいますと、さっき、人間の悪い癖だといいましたが、意味のないこと・理由のないことに対して、やはりそのもとを欲してしまうのはどっかの悟りを開いたお偉方でも無い限り、仕方のないことだと思います。
だったら、少しでも自分の生を、自身の心にとって安らぎあるものにするために、意味づけ・理由付けをすることは、全然悪いことではないと思うのです。
その意味づけ・理由付けは、宗教によってなされても、哲学によってなされても、自身の心のもとになされても、どのようになされても、それはその人の自由でしょう。

だけどね。
繰り返しになりますが、生や死に普遍的な意味なんてものは存在しないと考えた方が謙虚でクールですよ。
アナタにはアナタなりの、ワタシにはワタシなりの、彼には彼なりの、彼女には彼女なりの意味があるわけで、それを他人に押しつけるのは烏滸がましいと思います。

投稿者 邑波。 : 12:33 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月04日
■件の痛々しい記事より派生して

昨日長々と書いた「痛々しいヤシが」であるが、件の痛々しい記事のトラックバックを追ってわかったのだが、二部構成らしい。
最初の記事はこちらで、件の記事は、最初の記事に対する反応に対する記事だそうだ。
最初の記事で問題になった点は、

何を調子に乗ったことを言っているのか。欝とは心の風邪だといわれるけど、年中風邪ひいているやつなんてそれは劣った人間であるのは確か。むしろ最近僕が思うことは勉強には頭のよさも重要かもしれないけど、体調管理できるかも重要なファクターだと思う。いつも変な時間に寝て、栄養に気をつけないとそりゃ風邪も引くし、脳内のセロトニンの分泌も乱れる。

という部分である。
最初の記事に対して、こちらのトラックバックがあり、その上で、前述されているものが偏見ではないということを主張するために、件の記事を書いたということだ。
ある東大生に関してこれ以上書くつもりはなかったのだが、一つ思うところがあったので筆を握った次第である。

ここで一つ新たに述べたいと思ったことは、いわゆるメンタルな病気に対しての偏見についてである。
鬱に限らず、境界例やパニックディスオーダー、統合失調症といったメンタルな病気に関しては、しばしば穿った見方がされがちであるのは事実だと思う。
ただ単に怠けてるだけじゃないの?だとか、かまって欲しいだけでしょ?だとか、挙げ句には、あいつ変だよね、だとかという見方は、残念ながら少なくないと思う。
今でこそこういった病気の認知は徐々に進んできているものの、根性が足りないだけだ、とか自己管理がなってない、って考え方も根強く残っていることは事実ではないだろうか。
我々比較的新しい世代の人間の中にも、そういう考えを持っている人は少なからずいるのではないかと思う。
また、我々より古い世代間では、そういった人の割合はさらに多いだろう。
事実、「鬱っぽいから病院に行きたい」などといった場合、親が猛反発することは少なくない。
こういった点は、残念ながら認めざるを得ないだろう。
そして、鬱の人は劣っているかどうかという点。
劣っているの言葉の意味合い次第で、偏見かどうかがわかれるところではないかと思う。
抑鬱状態にある場合、当人の健全な状態と比較すれば、劣っていると言えるのではないか。
単純に、健全な状態と不健全な状態の比較なのであるから、当然と考えられる。
しかし、健常者一般と比較して、抑鬱状態にある人が劣っている、ととらえるのならば、それは偏見ではないだろうか。
また、もう一つ、生活習慣が鬱のトリガーとなるかどうか。
これは以前見たので再度見ることはしないが、偏見であるように思われる。
全体としては、やはり、メンタルな病気は様々な偏見に晒されているのは確かに思われる。
が、その傍ら、一般的病理としての認知も、徐々に進んできているのではないだろうか。

にしてもね。
ちょっと偏りすぎだと思うけどね。
こちらの方も書いてるけれど。

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てかさ。
TB とばす気のないところにも勝手に TB 飛んだんだけど。orz
MT の設定の問題か?(;´Д`)
。。。設定の問題だった。orz

投稿者 邑波。 : 16:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年04月03日
■痛々しいヤシが

とりあえず、まあ、ココを読め。

自分の経験が世界の普遍であるとは限らないことくらい、大抵の人間はわかっているものだと思うが、どうやらそうじゃない痛々しい奴もいるらしい。
また、さらに痛々しいのは、その経験から導き出した経験則とやらが、甚だ滑稽なものである点だ。

まず私は欝の一部の人に対して、かなりの嫌悪感があるということを告白しておく。その嫌悪感の原因は欝の人たちの多くは欝であることを免罪符としようとしていることにある。 欝だから何何しなくてもよい、欝だから私に対して他人は何何してはいけない、何何言ってはいけない。 また、欝であることは全くなんの不利な点がないという人までいる。

しかしそんなのはうそだと思う。

鬱であることを免罪符にしたくてしているわけではないということを強く言いたい。
本来の自分なら出来ることが出来なくなっており、そのことを苛立たしく思い、しかしながら、現実に出来ない自分を直視せざるを得なく、認めざるを得ないのである。
その結果、自分に対する負荷を軽減せざるを得ず、心苦しいながらも、周りの人間に頼ったりするわけである。
このくだりは甚だ悪意に満ちている。
鬱の人間を貶める発言であるとしかとらえようが無い。
オレの方があんたにかなりの嫌悪感がありますが何か?

そして次。

実は私自身、欝欝した毎日を送っていたし、病院に行こうか迷っていたときもある。 しかし私は生物学を勉強していたし、また機械論者であったのであったので、ここの人と同様、『「うつ」はれっきとした生物学的病気である。つまり内蔵疾患などと同等に認識されるべきである』との考え方をとっていた。 そして、私の周りを見てみても欝っぽい人のほとんどは生活がむちゃくちゃ、つまり食事がいい加減であったり、睡眠のとり方が悪かったりしていることが多いということに気づき、そして私自身そうであることに気づいた。 その後私自身は、早寝早起きと食事に気をつけそしてできる限りかるく運動することで今のように精神の平安を取り戻すことが出来た。

これを持って、

生活習慣が普通でも欝になった人がいるかもしれない。しかし私は自分の経験上(駒場の友人を見て)、生活習慣起因がほとんどだと思う。なので欝の人にはもう一度自分の生活習慣を見直して欲しい。他の人に文句を言って甘えるのではなく、そういう当たり前のことからはじめるべきである。

としているのだが、果てしなく意味がわからない。
つまり、甚だ非論理的なのである。
ここで記述されている事実をつまみ上げてみよう。

・鬱っぽい人は生活習慣が乱れている
・駒場の友人を見て、鬱は生活習慣に起因するという経験則がある
・自分は生活習慣をただすことによって、鬱々とした気分から抜け出せた

ハァ?('A`)
みなさん、意味がわかりますか?('A`)
つまり、どうやらこういうことを言いたいらしい。
鬱っぽい人は生活習慣が乱れているから、鬱は生活習慣に起因するものである、と。
さて、客観的に見て、このような結論を導き出すのは、どう考えても材料が足りない。
鬱々とした気分=抑鬱状態であるのかどうかが不明。
鬱っぽい人=鬱病であるのかどうかが不明。
鬱が生活習慣の乱れを引き起こすのか、生活習慣の乱れが鬱を引き起こすのか、全く持って判断がつかない。

そして、抑鬱状態にある人間を考えてみる。
抑鬱状態に陥ると、健常な状態と比較して、能力が低下することは否めない。
健常な状態では簡単にできたことも、抑鬱状態では恐ろしいほどの労力を要することも珍しくない。
そして疲弊し、動く気力も体力もまったくもって削がれる。
さて。
このような状態で、健全な生活習慣を保つことが可能であろうか?
少なくとも、単独でそれを行うことは、甚だ難しいと考えざるを得ない。
とするならば、鬱っぽい人の生活習慣が乱れることは珍しくないと考えられる。
つまり、抑鬱状態にある場合、生活習慣が乱れることは考えられる。

それに対し、その逆はどうであろうか。
オレ自身が鬱であることから、イロイロとそれなりに鬱に関して調べたことがある。
しかし、未だに、生活習慣の乱れによって鬱が引き起こされるという内容のものは、ついぞ見かけた記憶がない。
また、生活習慣が乱れることによって鬱になるということ自体、どうしてもイメージできない。
そして、以下のような意見もある。

生活習慣と鬱病の関連についてですが、直接的に生活習慣が鬱病の 原因とはなりません。逆に鬱病になった結果として、生活習慣が乱 れることはあります。

どうにも、この立場のほうが正しいように見えるのだが、いかがだろうか?
要するに、

原因と結果を混同してはいませんか? 鬱病の人に不規則な生活をしている人が多いから、 不規則な生活が原因となって鬱病という結果になった、 という結論に達するのは少し乱暴な論理だと思いませんか?

ってこった。

また、

『「うつ」はれっきとした生物学的病気である。つまり内蔵疾患などと同等に認識されるべきである』

というくだりで、同等の意味を取り違えているように思えて仕方がない。
どうやら、内臓疾患などと同等に生活習慣の乱れによって引き起こされる、と続けたいようだが、それならば、同等ではなく同様という言葉を使うだろう。
それでも無理があるが。
ここで言っているのは、鬱という病気はドーパミン・アドレナリン・ノルアドレナリン・セロトニンといった循環系物質の不調和のために起きるという意味合いで、生物学的病気であると言え、すなわち、内臓疾患などと同等に、怠惰や惰性などによってもたらされる怠け者がなる病気として貶められることなく、一般的病理として認知されるべきである、ということではないのだろうか。
事実、抗鬱薬とは、セロトニンの再取り込みの抑制やノルアドレナリンの分泌の促進といった効果を持ったものである。

なお、なんか抑鬱状態と鬱病の関係について混乱しているみたいなので書いておきます。
抑鬱状態とは、一つの症例であり、病名ではありません。
鬱病に典型的に見られる症例であることは確かです。
ただ、鬱病であっても、抑鬱状態には陥らず、身体的症状のみが現れる場合があります。
これは仮面鬱と呼ばれるものです。

さて、一般の方々はどのように見るのでしょうか。
ご意見お待ちしています。

投稿者 邑波。 : 04:00 | コメント (5) | トラックバック

2005年03月27日
■ホリエモン

今何かと話題のホリエモン。
彼に対しては賛否両論あるわけですが。
個人的には、心情としては見方をしてあげたいところですが、まあ、現在の状況は致し方ないところがあるように思います。
彼のやり方に対して、金があればイイってもんじゃないと抜かす輩、特に政治家がいますが、それは全くお門違いな話です。
現状の法の中で、きちんとルールに則った方法で彼はことを行っているわけで、それを非難するいわれはないわけです。
にもかかわらず、あちこちから彼がぶったたかれるのは、いわゆる敵対的買収が日本という国において、企業倫理からはずれているという見方があるからでしょう。
で、無責任に自分とかんけいないことかのように発言している政治家。
敵対的買収が好ましくないことだというなら、そういう風な法整備をするのがおまえらの仕事だろうと。
もし誰かが叩かれるとするならば、ぶったたかれるべきはホリエモンではなく、このような法整備を野放しにしている政治家であるはずです。

でまあ、今回の買収劇でホリエモンが何かと苦戦を強いられるのは、彼自身のやり口であることは確かでしょう。
日本放送にしてもフジテレビにしても、いわゆる日本の一流メディアです。
さて、日本で一流な企業体質って、いわゆる日本的なものなんですよね、大抵。
それがなぜかと言えば、そのような体質を持っていることが日本で一流企業になるための前提条件だったからです。
そういった前提条件は崩れつつありますが、昔からの体質を引きずっている企業が大部分であり、今回、彼が買収の対象とした企業が、そのような体質を持っていることは、よっぽど脳味噌が足りなくなければ、少し考えればわかることのはずです。
そして、ホリエモンはその辺の認識が甘かったんじゃないかと。
ああいうやり口は、法に則っていても、日本企業体質、いわゆる談合体質には則っていないわけです。
あらかじめの根回しが無いと、大きな反発が目に見えて現れるのは、当然の結果だったと。

まあ、いずれにしてもライブドアが日本放送の株の過半数確保は揺るがないでしょうから、そこからどう動いていくかですね。
孫とか入ってきたけど、奴ら IT 界の巨人とか言われてるんですね。
最近のニュースで知りましたよ。(´・ω・`)
個人情報流出のプロフェッショナルという認識しかなく。(・∀・)
ちなみに、おいらのライブドアの認識は、無料プロバイダっていう感じです。
別に、ホリエモンのファンでも何でもないですし、むしろ所詮ライブドアくらいに思っています。
まあ、今年の流行語大賞は「想定の範囲内」ですかね。

投稿者 邑波。 : 20:02 | コメント (0) | トラックバック